角田房子著『閔妃暗殺』(みんびあんさつ、新潮社、1988.1.20発行、1988.3.5第5刷)から
「福沢諭吉が朝鮮について初めて書いたのは1875年(明治8年)10月7日付『郵便報知新聞』に発表した「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」であろう。江華島事件の勃発はこの年9月で、それに伴って起こった「朝鮮討つべし」の世論に反対する主旨である。福沢は朝鮮を“小野蛮国”と呼び、日本に“利”や“益”をもたらす国ではなく、「 たとへ彼より来朝して我属国となるも、なほこれを悦ぶに足らず」と書いている。このとき福沢はまだ朝鮮の人と接したことはなかった。」
「1885年(明治18年)3月16日付の『時事新報』に掲載された「脱亜論」の中で、福沢は次のように記す。
「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、…まさに西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。」
「のちに私は、一万円札の福沢の“顔”に不快を表明するのは韓国人だけでなく、中国人の一部も同じ反応を示していることを知った。」
かなり長い引用となったが、福沢諭吉といえば、慶應義塾大学の創始者とか『学問のすゝめ』など、教科書にも取り上げられる人だ。朝鮮にたいしてこのような考えをしていたことを知り、ちょっと残念に思った。
写真は福寿草。我が家の庭でやっと咲いた。
2011年04月04日
この記事へのコメント
いかなる経緯を経て福沢諭吉が脱亜論に至ったかを調べて見給え。
Posted by 通りすがり at 2018年07月04日 03:25
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